村上春樹の時代的必然、あるいは「スプートニクの恋人」

村上春樹の長編小説の共通点といえば、必ずといっていいほど、大切な人が突如としてどこかに消えてしまうことである。ほとんど前触れもなく、理不尽に、ときには非現実的に、こつ然と消え去ってしまう。

主人公は、失踪してしまった大切な人を探すべく東奔西走するわけだが、大体の作品においてそれは徒労に終わってしまう。もともと消え去ってしまうには、消え去ってしまうだけの必然的な理由があることは、主人公もハナから気付いているか、もしくは少なくとも予感しているのだ。

さて、村上春樹の小説のもうひとつの共通点は、主人公が「既製のコミュニティに所属していない」という点である。主人公は、職業的な意味や、社会的な位置づけとして「教師」であるとか「学生」という身分に所属していることがあっても、本質的な意味においてそのコミュニティの成員たらしめていないし、またどのような既製のコミュニティにも参加を希望していない。

言い換えれば、村上春樹は、コミュニティに所属することの違和感そのものを、小説自体の推進力にしている。デビュー作である「風の歌を聴け」から、最新長編の「アフターダーク」まで、これは本当に終止一貫している。

さて、これら二つの大きな共通点からみて、村上春樹の小説は「喪失」と「孤独」が大きな「テーマ」といえるわけだが、だからといって、村上春樹の小説を読むたびに「人間というのはなにかしらを喪失しながら孤独に耐えて行かなければならないのだなぁ」というようなステレオタイプに帰結させたりすると、短絡的すぎて実りがない。

では、どのようにして「孤独」と「喪失」という主題をテーマを読み解くべきか?それは、主人公の「孤独」と「喪失」に対する態度の変遷としてである。

「ねじまき鳥クロニクル」の出版後、4年のブランクを空けて出版した「スプートニクの恋人」は、その活動再開を高らかに読者に告げるかのように、村上春樹的比喩が横溢し疾走する書き出しからはじまる。村上春樹的にたとえるとしたら「世界中のツキノワグマの胸の三日月が満月になってしまう」かのような書き出しである。

ファンなら微笑を、毛嫌いする読者なら冷笑を浮かべているであろうことが、簡単に思い浮かばれてしまうくらいにその村上春樹らしさは、ブランクの後も変わることなく、泰然自若として存在しているのだが、まさに村上春樹らしい復活作であるその小説は、意外なことにそれまでの村上春樹の小説とはまったく異なった終わり方で幕を閉じる。

私はこの本を、村上春樹の本をはじめて読む人にオススメしたいので、その結末について、ここに書くことは控えるが、村上春樹の仕事をある特定の作品ごとで時代ごとに区切るのであれば、間違いなく「ねじまき鳥クロニクル」

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村上春樹の本
2006/05/25




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