感動している自分に感動している自分

安藤鶴夫を評して、永六輔さんが書いている文章のなかに(文藝春秋版『遠くへ行きたい』1972年刊。中学生のときに買った本でなぜか今でも持っていて時々読む)、

「常に感動を求め続け、探しつづけ、遂には感動をするための美談を創作して感動する。<中略>こうして安藤サンは当り前のことに感動し、感動する自分に感動し、僕はその感動振りに感動したものだった。<中略>僕達の周辺にはいろいろな種類の美談がいりみだれて、これは女性週刊誌のスキャンダル以上に、判断力をまどわせてはいないだろうか」

というのがあって、師匠と仰ぎ敬愛した安鶴先生を、「いずれ、このあたりから評伝を書きたい」と結んでいる。僕は、この一文だけでも永六輔は信用できると今でも思っていたりするのだけれど、つい先日、朝日新聞の夕刊に、奥泉光さんが、こんなことを書いていて、

「感動することは無条件によいといえるだろうか。感動とは心が何かの力に動かされることであり、だから感動しやすい人とは、簡単に動かされてしまう人でもある。<中略>感情的になるあまり、判断力を失い、感動の背後に隠された差別や抑圧や自由の圧殺に気付かない人でもある」

どちらが、胸にすとんと落ちるかというと、僕には30年以上も前の永さんの言い方のほうであって、奥泉さんのものは、直截的にすぎて逆に上っ調子という感じがする。

それはともかく、あまりに安直に泣いたり怒ったり、その感動やら怒りやらを他者に押し付けたり、沈思黙考している人を嘲笑したりすることは、止めたほうがいいのだと思う。

奥泉さんいうところの「その程度で感動してたまるか」というやせ我慢。わが身の覚悟としても肝に銘じたい。

出版の仕事
2006/03/19




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