からだからだんす

ブログ作成画面だと、
なんか思考がよく進むという罠ww
いっそここでレポート書きたいです(^o^)
(以下、行程垂れ流し)
(でも、当たり前の事とか今更な事ばっかり。)

 

ひとつのことを直線で規定したがる枠と、
それに収まり切らない、捉えようの無いもの。

体は、精神を納めておく箱ではない。ということ。
思考する体を、そういう現象として
人はどれくらい自覚することが出来るんだろうか。
知らないうちに体が勝手に決めていることが、
「ほとんど」だったりする。

 

言語の次元。
ひとつではない「出来事」を抽象化して
「これ」って言い表す事で、人は救われる。

出来事→言語の次元→表層って書いてあって(ノートに)
"表層"の言わんとしてることがよくわからんが
出来事→大脳新皮質→発話 みたいに考えればいいのかな?
(なんか急に薄くなった感じはするが)

言語を介することで、人は
複雑すぎる現実世界から身を守っているのだとしたら
やっぱりどのような言語に身を置くかに因って
世界の捉え方はどうしてもある程度規定されるだろう。
だからこそ、その言語圏に帰属意識が生まれるんだろうし。
言語は集団に依存する。

 
世界の複雑さを捉え切れないのは脳の欠陥なんかではなく、
むしろ「曖昧さ」や「いい加減さ」を残す機能こそが
人間の知恵の本質である。
みたいなことを、むかし脳神経科学の本で読んだ。

こまかいことを削ぎ落として「抽象化」する言語の働きが
もっとも人間を人間たらしめていると言われるゆえんかも。

 

だけどそもそも人間には、
「直線的なこと」や「規則正しさ」への憧れ・欲求が
全体の作用として、深く備わっているように思える。
そして反作用も。

言語の論理性とか秩序性って、
絶対に必要とされていて
常にある程度は保たれるものでもあり、
一方で少しずつ破壊されるものでもある。

で、ここであえて
音楽の話をしなきゃいけないっぽいんだが
「調性」が
言語における文法みたいなもので
守ってた方が絶対に人間は気持ち良いんだけれど、
それに守りたい欲求もコンスタントにあるんだけれど、
壊したい衝動も抑え切れず、
どうして

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学生の本分なんて知らない
2009/07/10




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