07年4月号 「多文化共生」について考える

「多文化共生」について考える  

 滋賀県内にはブラジル人学校が少なくとも六つあります。少なくともと言うのは小規模校が自然発生的に生まれているため、私たちが把握していない学校もあるように思えるからなのですが、これらは一般の私塾と同様に何らの財政支援もないため、どこも満足な設備を持っているとは言えません。
 そんな中、あるブラジル人学校の先生が次のようなことを話されました。「学校の中では体を動かすようなスペースがないので学校外の場所でそういった活動をすることになるが、近くの公園は使ったらダメと言われる」「近くにある自動販売機で飲み物を買うのもダメと言われる」。理由は分からないけれども、近隣の人からそんなことを言われるというのです。

  「多文化共生」という言葉

 最近よく「多文化共生」という言葉を耳にするようになりました。この言葉は一九九五年の阪神淡路大震災の際の外国籍者への支援活動の中から生まれた言葉のようですが、今では役所や人権教育機関などでも使われるようになり、社会的に認知される言葉となりつつあります。 この言葉はしばしば「社会」という言葉と結びつき、「多文化共生社会を築きましょう」などと使われますが、これはどのような社会を意味するのでしょうか?
 「共生」とは単に、同じ地域に暮らすという意味ではありません。そうだとすれば、日本ではすでに多様な文化的背景を持った人たちが暮らしているわけですし、「共生社会」はすでに実現していることとなってしまいます。また、「共生」を「共に生きる」というように解釈しても、その意味は、いまひとつよく分かりません。
 そもそも「多文化共生」は造語であって辞書に載っている言葉ではありません。「多文化共生」に似た言葉で多文化主義というのはありますが、これに関しては広辞苑に次のように書かれています。「一つの国・社会に複数の民族・人種などが存在するとき、それらの異なった文化の共存を積極的に認めようとする立場」。だとすると、「多文化共生」についても、むしろ私たちの暮らしの中での関係のあり方を問う言葉だと言えそうです。
 「共生」という単語を調べてみると、実はこれは生物学で使われている言葉だということが分かります。広辞苑には「異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一所に生活している状態」とあります。その例としてよく引き合いに出されるのが、ヤドカリとイソギンチャクの関係です。また、「ヤドカリとイソギンチャク」の関係は小学四年生の教科書(東京書籍)でも題材として取り上げられているということを最近知りました。教科書では「共生」という言葉は使われていませんが、「共生」の意味について非常によく分かると思うので少し引用させていただきます。
 「ヤドカリ

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1(財)滋賀県人権センター発行『じんけん』
2008/03/17




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