レポート「坪田譲治について」坪田譲治の作品には「こどもと文学」の授業で初めて出会った。
「笛」という作品である。それから数日して、
ある日の帰り道に立ち寄った古本屋で彼の全集を
手に入れる事が出来た。今はその全集を、合間を見つけては
少しずつ読んでいるところであるから、
この論文を書くにあたってはまだ私は坪田譲治の初心者で
あるので少し不安である。
しかし初めて知った、
まだ生もののようにほやほやしている手触りを元に書いてみようと思う。
まず彼の年譜を紹介したい。
1890年(明治23年)岡山県御野郡石井村島田
(現在の岡山市島田本町)に生まれる。
父の平太郎はランプの芯をつくる製造会社、
島田製織所を経営していた。父は譲治が8歳の時に他界し、
大学生だった兄が家業を継いだ。
以後、会社にまつわる身内間での争いが続き、
後に譲治も経営に参加することもあった。
1908年(明治41年)早稲田大学文科予科に入学。
友人のつてで、童話作家の小川未明と出会う。
1926年(大正15年)短編小説「正太の馬」を発表。
翌年処女短編集「正太の馬」を出版。
この頃は雑誌「赤い鳥」に童話を投稿するも、
収入に結びつかず、苦しい生活を送る。
1935年(昭和10年)山本有三の紹介で「お化けの世界」を
雑誌「改造」に発表し、好評を得る。
翌年から朝日新聞夕刊の新聞小説として連載した
「風の中の子供」が絶賛され、子供から大人という
幅広い年齢層の人気を集め、一躍人気作家となった。
後に「風の中のこども」は映画化までされた)
戦後は日本児童文学者協会の会長などを務めた。
後年は自らも童話雑誌「びわの実学校」を
主宰し、松谷みよ子、あまんきみこ、
寺村輝夫、大石真等を育てた。
また、自宅の一室を児童図書館「びわのみ文庫」として解放した。
後年は児童文学者協会会長などを務めた。
1982年(昭和57年)7月7日、92歳永眠。
1984年(昭和59年)岡山市が「坪田譲治文学賞」を制定。
坪田譲治とは一体どんな人物であったのだろう。
あとがきなどを読むと、自分にきびしい、
ストイックな人であった印象を受ける。
先程紹介した「びわのみ文庫」を開設した自宅の庭に、
縁起の悪いとされるびわの木を植え、
逆に「びわの木に負けてなるものか」と意気込んだそうである。
また雑誌「赤い鳥」の主宰者である鈴木三重吉に
自らの作品の悪い点を指
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