カメラ・オブスキュラの認識論(近代教育フォーラム15号)前回触れたシンポジウムのほかにも、この学会誌にはアート・エデュケーションの観点から読んで、興味をそそられるテーマのシンポジウムが掲載されている。<啓蒙「と」教育―その絡みと捻れを考える>と銘打たれたシンポジウムの発表者である弘田陽介(HIROTA Yosuke)は、「啓蒙の眼球譚 ペスタロッチとヘルバルトの視る身体」と題する興味深い考察を寄稿している。これは、J.クレーリーによる『観察者の系譜』に基づくとともに、この著作から刺激を受けて展開された思考を纏めた文章のようだ。
まず、啓蒙という言葉、すなわちEnlightenmentは、ただ暗鬱で蒙昧な前近代に合理的な見通しをつけたという運動を意味しているだけでなく、「その光を見つめる人間の眼差しへの探求を含み込んでいた」と、ここでのテーマを明らかにする。文字通りの「眼差し」について考えることが啓蒙思想の重要課題だと言い換えてもよいだろう。
デカルトはカメラ・オブスキュラと眼球のシステムを図示した図版を用いて、それぞれのシステムの違いから人間の認識を論じている。そのことが最初に紹介されている。デカルトは人間の視覚が不完全なものであることを確認することによって、人間の認識に対する根底的な問いへと思索を飛躍させる手がかりを掴んだのである。カメラ・オブスキュラと眼球のシステムを比較したデカルトの論文は1637年のものである。
それから160年以上も経った1801年の『ゲルトルートはいかにしてその子を教うるか』で、ペスタロッチは、概念の明晰さの水準、つまり概念の明晰さと曖昧さは、遠近によって左右されると述べる。なぜならば、人間は感覚的存在であり、人間の内部に位置するはずの表象は、外界を五官という身体的装置を媒介にした外界情報の焦点化の帰結によって成り立っているからである。ここでは、「人間の外界にある対象が五官というレンズを通して、人間の内部にある中心点=焦点において表象という像を結ぶ」(弘田)という基本的なシェマで、外界・身体・表象の関係性が語られていることが炙り出されている。たしかに、レンズの比喩は、的確である。
次に、『ゲルトルートはいかにしてその子を教うるか』と同時期のヘルバルトの著作『直観のABCの概念』(1802年)と、同じくヘルバルトの『一般教育学』(1802年)という著作から次の各一箇所を挙げて、「人間の眼差しへの探求」と認識論の関係が綴られている。引用文を孫引きすると、次の通りだ。
「見ることSehenは一つの技術Kunstであり、生徒は他のすべての技術の場合と同様に、
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