⑧M市に戻ってから

M市に戻ってから
それまでの人生は寂しさを感じることができず無意識へその痛みを溜め込んでいた。そして転機の『気づき』が訪れて、それまで気づかなかった、自分の寂しさと向き合うことになった。それが実際に孤独な環境の中での作業だった。
わたしは人や社会との接点を探し求めた。自分の居場所を探し求めた。
体調を崩しながらだったので半端な作業ではなかった。それが可能になったのは色々な人たちのおかげだった。電話で話を聴いてくれた同級生。以前と変わらすに接してくれた人たちや新しく出会った人たち。
(出会った人たちと対等に接することができた。それは自分自身が変化したことが大きかったと思う。もう1人の自分で会うことができたから。しかし壁が取りさられた代わりに、そこのところが裂けてしまって繋がらない。それが不具合として症状に出ていたのではないだろうか。もがきながらもどこかで冷静に把握しようとしている自分もいるのだが。)
〈K中学校〉
2月に実家にもどった。過去のことで母と妹とは衝突はした。2人は病気のことを話したが分かろうともしなかった。2人は向き合うことができないようだった。家には眠る所がかろうじてあるだけだった。自分の体調を確認するほどの余裕はなかった。心の中は孤独と不安だけだった。
実家にいることには期限がついていた。もう少し休みたいとお願いしたが母は拒否した。
教員採用試験を受けたとき講師届けを出していたので県から声がかかった。4月から市内のK中学校でクラスサポートの仕事をすることになった。一人暮らしをするので仕事が必要だった。経済的なこともあるが社会との接点を求めていた。1日5時間の勤務なのでやれるだろうと思った。アパートを借りて引っ越した。
症状からくる不安感があった。当時は、どこまでが症状で、どこまでが気の持ちようなのかがよく分からなかった。
医者に、事情を詳しく話したが「それは気の持ちようだ。」と言われた。診断もはっきりとはしなかった。
依然として自分や世界がつかめないような感じはした。部屋を明るくしてテレビをつけていないと眠れなかった。
クラスサポートの仕事内容は、休憩時間に子どもの相手をすることだったり授業中にさわいでいる子を注意したりするものだった。責任も少なかった。それさえも体調が安定しなかったので難しかった。特にはじめのころはその場にいるだけで精一杯だった。
医者にそのことを話しても『まだ、慣れていないから。気の持ちようだよ』と言われた。またウツではないと言われた。仕事は何とかがんばって続けようと思った。そのうち良くなるかもしれないと思った。
わたしは友人も少なく、またみんな働いていて自分のことに忙しいようだった。会っても、なかなか症状の

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心と体
2007/06/08




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