再び沖縄一人旅 (4)-2首里城公園:
首里城の時代背景について:沖縄県には、沖縄本島(正式名称は、沖縄島(おきなわじま)に36の城(グスク)が、久米島と宮古島に14のグスクが、そして奄美群島(当時は、琉球王国の領土であり、今は鹿児島県に属しています。) に12のグスクがあり、日本の本土にそれぞれの国に藩があった様に、当時の沖縄もそうでした。 それらを尚芭志(しょうはし)が1429年に琉球王国と統一して、初代の王になりました。 1542年に、ポルトガル艦隊が琉球に来航しましたが、明(中国)との交易をし続けていた琉球王国は15世紀になり、形式だけでしたが、君臣関係を結ぶ冊封(さくほう)国となり、その後に、17世紀になり、薩摩藩(鹿児島県と宮崎県の一部で、正式名称は鹿児島藩)の付庸国(ふようこく、保護国より一定の独立的地位を認められているが、外交権など対外主権の一部を宗主国に対して、制限されている国家。)として琉球王国は位置付けられました。 その薩摩藩が琉球王国の財力を吸い上げ、それによって後の明治政府を、薩摩閥と呼ばれた薩摩藩が、長州藩と共に取り仕切る事になります。 18世紀から19世紀にかけて起きた産業革命によって、飛躍的に工業製品が生産された為に、その販売先を求めて、イギリス、フランスやアメリカが新たな市場と植民地を求めていました。 インドを中心に、東南アジアや清(中国)の広大な大陸へは、イギリスとフランスが優位に立っていた為に、米国は、広大な清との交易には、太平洋航路を手中に収める事こそが、米国の利益であり、それを国家戦略として位置づけました。 同時に、産業革命の継続に不可欠な産業の血液であった鯨油が大量に必要になり、米国は、その為に太平洋上で、盛んに捕鯨していていました。 その捕鯨船の蒸気機関用の薪や船員達の食料や飲料水などを補給する基地を設立しなければならない背景が米国にありました。 その為に、1852年11月に、米国のフィルモア大統領の親書(日本開国の指令で、ただし発砲は禁止された)を携えて、1852年3月に、海軍東インド艦隊司令長官に就任したペリ-長官は、バージニア州のノーフォークを出航し、4隻の小艦隊は、カナリア諸島、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、琉球、小笠原諸島をへて1853年7月8日に、江戸湾の浦賀沖(神奈川県)に姿を現した為に、この4隻の艦は「黒船」と呼ばれました。 そして、徳川幕府が指定した久里浜(神奈川県、「上陸記念碑」があります。)に上陸し、浦賀奉行に親書
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