■五山派及び臨済七派② 天龍寺

天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺)
臨済宗天龍寺派大本山  末寺数 105
・山内塔頭 9 慈済院 三秀院 松巌寺 妙智院 寿寧院 弘源寺 宝厳院 
        永明院 等観院
・山外塔頭 2 臨川寺 金剛院


歴史沿革
この地の由来は、平安初期に嵯峨天皇の檀林皇后が檀林寺を建立したことに始まる。後に檀林寺は荒廃するが、その跡地に後嵯峨 .亀山上皇が仙洞として離宮(亀山殿)を営んだ由緒ある場所である。また後醍醐天皇が青年期に修行された因縁の地でもあった。
禅寺としての建立は、 1339(暦応2)に足利尊氏、直義が後醍醐天皇の菩提と元寇以来の戦没者供養の為の勅願寺として、近隣の臨川寺に住持していた夢窓疎石を開山とし亀山殿跡に創建したもので、武家によって京都に建てられた初めての寺院でもある。当初は北朝元号に依って暦応寺としたが、延暦寺が名称に意義を唱えた為に天龍寺と改称した。直義が金龍の夢を見たことに由るとも云う。

足利幕府の強力な庇護と天竜寺船の莫大な運上利益もあり、寺勢は繁栄を極め、塔頭子院百五十余、境域も広大な巨刹となり、寺格も室町中期には五山之一に挙げられた。また、臨川寺、清涼寺と共に一大寺院群を形成し嵯峨の都市化を促進、洛中に並ぶ都市化、経済活性化を即していった。

しかし檀越の足利家が没落し寺領も疲弊、幕府の衰退と共に寺運も衰えていく。また創建後、応仁の乱や天明の大火など兵火に遭うこと 8 回、特に 1864( 元治元 ) 、禁門の変に関し、長州藩兵の屯所となっていた為、幕府軍の攻撃に遭い、一山焼失した。現在の建物は殆んどがその後、明治から昭和期にかけての再建である。


本坊庭園 (室町.世界文化遺産 国地・特別名勝)
夢窓疎石の作とされ、作庭時期は 1340~1345年頃と推測される。亀山離宮創建時、既に池泉庭園の造られた形跡があり、禅寺に改めた際に同師の改庭が入ったと思われる。疎石は作庭の名手で、同時期に西苔寺(1339)、また甲府恵林寺、鎌倉瑞泉寺、亀山離宮(南禅院)なども手掛けたとされる。堂宇は燃亡を繰り返し創建当時の遺構は残っていないが、庭組は当初に近い形で姿を残しており鎌倉期の「作庭記」手法を現在に良く伝えている。

庭園は池泉回遊形式をとっているが実質鑑賞本位である。曹源池を中心に対岸に築山、左右両幅を広く引き、借景には嵐山、亀山を配して壮大、優美な大和絵の如しである。また滝口周辺の荒磯風石組は水墨画の如く重厚、剛健である。これら寝殿

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Ⅲ.禅刹
2007/02/16




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