脳死を「人の死だ」と決めた瞬間国会で笑っていた奴等は本当に人間か?

 人間の脳は数多くの百億個とも言われる細胞によって構成され、その脳が人間の意識を決定するのです。決して観念の問題ではなく、物理的脳細胞の働きによって意識も決定されることに気が付いたか、気が付かないかは本人の自由。私に言わせれば唯物論が観念論を凌駕した時だと、それぞれの議員の目的意識に無関係に、人間の精神活動も、極めて物質、脳細胞の働きによる事が証明され、同時に認め時だと思います。

 創価学会とか言う宗教団体をバックにもって選挙活動をする公明党までもが、今度の「臓器移植法」に賛成したのです。これ大変な自己矛盾です。人間の「脳」が反応しなくなれば人間の「死」だと認めたのですよ。
 宗教は人の幸せも考え方、捉え方で不幸にも成ると言うのが原点で、逆に言えば不幸も考え方で幸せに成るはずだったのです。「信じれば救われる」がその最たる主張です。

 でも、彼等はこの「臓器移植法」に賛成し、人間の脳が死ねば、本当に死んでいるかどうかは判らないのですが人間は「死んだ」と結論付ける法律に賛成し成立させたのです。

 脳が機能しなくなれば「死」だと云うのならば、考え的には唯物論の立場です。観念論の宗教とどのように両立させるのか、楽しみですが、人の死を簡単に受け入れられないのが人間ではないでしょうか。少なくとも私は完璧に唯物論者ですが、私は自分の意思に関係なく検体に応じるのは嫌です。それが、新しい臓器の提供を待ちわびている方々にとっては邪魔な意見かもしれません、同時にその方々のお気持ちは充分過ぎるほど理解していますが、私は本人の自覚的意思を大事にしたいのです。年端もいかないこどもの臓器提供も、親の意思で認められてしまうことに反対なのです。もしかすると、その子の意思に関わり無く売られてしまうかも・・・現実に在りますが。
 私は一部の宗教で語られている輸血禁止、それも親の判断で輸血を禁止した為にこどもが死ぬ事件も聴いております。わたしは絶対それも許せないのです。その子には、判断できないのです。観念的に輸血は嫌だと親が思うのは自由です。でも、極めて唯物的、血液の導入に反対しているのです。本当に唯物的事に無関心でそんな事思想的にどうでもい無関心事なら、輸血したって構わないでしょうが。

 横に話しがずれながら、「臓器移植法」は真剣にみんなが考えながら決めることではないですか。決して成立させた時、笑っていられることではないでしょう。

経済・政治・国際
2009/06/20




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