薩摩藩渋谷別邸

安政2年(1855)12月に決まり、婚礼準備も急ピッチに進められたが、その直前の10月に、江戸を襲った「安政の大地震」で、総てを失ってしまったのである。江戸城の石垣崩落し、本所、深川を中心に死者4300人、倒壊家屋10、000戸と言われる大きな地震で、徳川斉昭の懐刀藤田東湖もこの地震で亡くなる。この地震により、既報の通り更に輿入れは延期され、此処、三田薩摩藩上屋敷も大きな被害を受けてしまった。更に当時、江戸を恐怖に包んだ黒船来航により、海に近い上屋敷は黒船からの砲撃を受ける可能性もあると嫁ぐ前の篤姫を避難をかねて 渋谷別邸に移すのである。

JR山手線、東横線、井の頭線、地下鉄と都心の交通要路渋谷は人ごみに溢れる一大拠点であるが、当時は、江戸の郊外に位置した渋谷周辺にあった大名屋敷はほとんどが下屋敷だったと言われるが今昔、彼我の違いに驚くばかりであろう。その喧騒の街渋谷から東に位置し、國學院・青山学院・実践等学舎が集中する閑静な場所に別邸跡となる「常磐松の碑」がある。嘉永5年(1852)に薩摩藩屋敷になり、その後拡張され、1万8千坪の広大な敷地となり、その碑の背後に 鬱蒼とした樹木に包まれた常陸宮邸もその広大な敷地の名残と充分想像出来る。

かっては此処に「常磐松」という大きな松があり、これが島津家ゆかりとの口伝から、斉彬の家来が建てた石碑が高層建物の庭の一角に残されているのは江戸を語る唯一残された歴史案内として、大変嬉しい。

ここから、念願叶い、篤姫はいよいよ江戸城入りを果たす。此処から、現代の「青山通り」を東に一路、江戸城に目指したのであろうか?。行列は先頭が江戸城に到着しても、最後尾は渋谷別邸にあり、と言われその壮大な行列にただただ驚くばかりで有る。

その華やかな輿入れの影に、徳川 家定を説得し、時期将軍後継ぎに徳川慶喜を勧める、島津成彬のしたたかな密命を背負う。大勢の見送り人に見守られながら、硬い表情で渋谷別邸を後に篤姫は将軍跡目争いの渦の中、江戸城に向かう。

大河ドラマ
2008/05/05




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