三田の薩摩藩邸上屋敷

JR田町駅前には薩州の蔵屋敷があり、「西郷・勝会見の地」の碑が立ちその北側方面にNECの本社ビルが建っている。その一帯が薩摩藩島津家の上屋敷である。ビルの外周に手入れの行き届いた植え込みがあり、その植え込みに挟まれるように「薩摩屋敷跡」の碑が建っている。

道を俯瞰するような近代的な大きな建物に囲まれて、「此処が薩摩屋敷か?」と思う位のビル街に幕末のイメージが沸かないが、この碑が場所案内に大きな役割を持っており、初めて訪れる幕末フアンには何よりも頼もしい存在である。

島津成彬の養女になった篤姫は鹿児島から、京都の近衛家など挨拶回りで立ち寄り、江戸へ到着し、ここ三田の薩摩藩上屋敷に入るまでは順調であったが、家定へ輿入れするまでには実に3年の月日を待たされてしまった。安政元年はペリーの来航など事件もあり揺れ動く幕政に婚礼はようやく安政2年(1855)12月に決まり、婚礼準備も急ピッチに進められたが、ドラマ放映の如く、江戸を襲い、俗に言う「安政の大地震」で、総てを失ってしまったのである。この地震により更に輿入れは延期され、此処、三田薩摩藩上屋敷も大きな被害を受け、篤姫は住まいを渋谷別邸に移すのである。

この間、篤姫は此処三田薩摩藩上屋敷で、不確定な輿入れ時期を前に悶々とした一時期を此処で暮らしながら、徐々に御台所への風格が備わって行く姿が、尚五郎と碁を手合わせするシーンに見えて来る。

時も経過した慶応3年(1867)10月頃、三田の「御用盗」と言われた薩摩浪士が乱暴狼藉を働き、同年12月23日遂に江戸城西の丸を炎上させてしまう事件が発生し、藩邸に逃げ帰るなど組織的で挑戦的なテロ活動が繰り返された。
そんな乱暴狼藉に庄内藩が犯人引渡を求めたが、交渉決裂し、攻撃もやむなしと庄内藩、上の山藩以下の列藩が、一種の治外法権であった三田薩摩藩邸の焼討を敢行した。所謂戊辰の戦いに通じる歴史的な事件が此処から発生し、国内内戦に繋がってしまう、そんな歴史的拠点でもあるのだ・・・。

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大河ドラマ
2008/04/28




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