愛の段階先日の学習会では、りんれいさんにエル・カンタラーの霊言を担当していただいた。りんれいさんは、大学にて仏教を学んでいる現役の学生さんであり、現代仏教の問題点も含めてプレゼンを行ってもらった。りんれいさんの使命のひとつに、現代仏教の改革があるそうだが、学問化し形骸化した仏教を変えていくことは大変だと思う。
驚くべきことに、あの「無我」の教えが、現代仏教においては「我」がない、すなわち霊魂などないという唯物的な解釈に陥っているのである。何ということだろう。神理とはまったくの正反対の教えである。さらに、信長の時代にキリスト教が日本に伝えられた際、死して人間の魂は天国に還るというキリスト教の思想を、魂が存在すると捉える野蛮な宗教だと見下したのが僧侶たちだったということも聞く。それくらい昔から唯物的な仏教理論が広まっていたとは驚愕である。あれだけ仏陀が「教えを言葉として書き写すのではなく、心で教えを聞きなさい」と弟子達に教えたのに、何千年かすると教えは学問化され曲がってしまうのだ。レムリアでも気をつけなければならない。できる限り、わかりやすく易しく、法を残していかなければならない。
さて、今回の学習会の質疑応答では、愛の段階論に関して目から鱗の落ちる学びがあった。
K会にて、キリスト教でにおける「愛」と仏教で説かれる「悟り」の2つを架橋する理論として「愛の発展段階説」という教えが説かれた。悟りに段階があるように、愛にも四次元の「本能の愛」、五次元の「愛する愛」、六次元の「生かす愛」、七次元の「許す愛」、八次元の「存在の愛」、そして九次元の「救世主の愛」という段階があるという理論である。
これに対しレムリアでは、アモール様の霊言にて「愛において高さは関係ないのです。愛においては、豊かさだけが意味をなすのです」と言われていることもあり、愛に高さや段階はなく豊かさのみあるという風に捉えられがちだった。
確かに、「存在の愛」ということで、存在するだけで人々の喜びとなるわけで、それゆえに人々は自分に感謝すべきだという高慢さが出てくると、たちどころに地下の波動に通じることになる。しかも、K会においては、弱者の側に立ち、共に分かち合おうとするキリスト教における愛は水平の愛だとし、仏教の「慈悲」は、悟りたる上の者から下に降ろしていくという形での垂直の愛であり、慈悲のほうが知に裏づけられた高度の愛であるという風に教えていたと記憶している。ゆえに、貧民を助けるというマザーテレサの素晴らしい愛の行為も、K会においては、政治により解決されるべき問題であるとして、あまり大きな評価をしない。
慈悲を垂直的な上下関係で愛を捉え、上から下を見下ろすようなことは、考えてみれば、地下の世界では逆三角形にな
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