下関海響マラソン参戦記 沿道は、ランナーを応援する観衆で切れ目のない人垣である。
42.195キロメートルの間、暖かい声援が途切れる事がなかった。
観衆の応援に心で感謝しつつ、表情は実に硬かったことであろう。あごをあげ、口は大きく開けたまま、腰を前に折る不恰好な姿勢で走る。動きを忘れかけた瞳孔は目前の一点をただ見つめ続けていた。
空から見下ろすと溺れかけた昆虫が川の流れに逆らうため手足を動かし必死にもがいている様子に見えたか・・・元気のあるランナーが後から追いつき、次から次に自分の両脇よりリズムカルに走り抜ける。
「頑張れ、頑張れ、人生、頑張れ!」
のぼり坂の中腹に陣取り、手製メガホーンを片手に7500名すべてのランナーに届くように、声を張り上げ熱心に応援してくれたお年寄りの姿が目に焼きつく。またその声がゴールする瞬間まで心に鳴り響く・・・
沿道の皆様の心温まる応援に、あらためて感謝を申し上げたい。
さて、トレーニングそのものは楽しい事である。いくら追い込んでも楽しい。
トレーニングをする行為がごく当たり前のことと思うようになると、過去の自分と現在の自分が変化したことに悦びを見出す。変化は肉体と精神の両面から現れる。しかし、そのバランスとなるとトレーニングでは分からない。だから・・・レースに出る意義がそこにある。
レースで結果が出た瞬間、最大の悦びが心に怒涛のように訪れる。
しかし、長くは続かない。瞬く間に消える。
しばらくして、今度は大きな不安に陥る。その変化がまた、変化してしまうことを恐れる。
これは無常なる世の理。
練習環境は変化する。老いは容赦なく迫る。体の思わぬアクシデントもある。
さらに現在より向上する変化を望むとすれば、必然として以前よりさらに厳しいトレーニングを積むこととなる。
そのトレーニングを重ねると、継続したことに対し無意識のうち悦ぶ気持ちが生じる。するとレースに出たくなる。
つまり、こうした繰り返しによりトレーニングそのものが楽しくてやめられなくなる。
しかし、レースで満足な結果が出なかった場合はどうであろうか。
まず過去のトレーニングそのものを否定する。
自らの足りない部分をさらに厳しく見つめる。
その後はやはり・・・さらに厳しいトレーニ
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