孤独死新聞に、自宅で誰も知らないままに亡くなり、発見が遅れることもある「孤独死」の事が取り上げられていた。
その記事では、社会的に孤立した一人暮らしの高齢者が、病気などで倒れても外部に連絡するすべがないままに死ぬ事を「孤独死」と定義づけている。確かにそれは問題だ。すぐに処置すればとりあえず命を助けることができるかもしれない状況で、その連絡が取れない、対応ができないというのは、社会のシステムとして看過できないことではある。しかし、それを「孤独死」などと言う言葉で呼ぶことが適切なのだろうか。なんだか問題の本質を取り違えているような気がしてならない。
だいたい「孤独」という言葉には、寂しさとか、不幸とか言う情緒的な要素がつきまとう。高齢者の一人暮らしが必ずしも「孤独」かどうか、そんなことは本人に聞いてみなければわからない。社会的に孤立していることを自ら選んだ場合だってあるだろうし、一概に老人が一人暮らししていることについて、「孤独」である、そして「孤独」であることが、「不幸」である、などと決めつける必要はどこにもないはずだ。
どの様な生活をするかということは、基本的に個人の意志によるものだ。端からとやかく言われるようなことではない。問題は、救急時に対応が取れるかと言うこと、それから、死んでしまった場合に、できる限り早くその後始末ができるかということだろう。
発見が遅れたら、本人にとっても周囲にとっても、いろいろと手間がかかる。病気や救急の場合は、本人の命を救えるかどうかについて、迅速にその対応が取られるときよりは確実に条件の悪い困難な状態で救命活動を行わなければならず、命を落とす確率も増えるし、加療やその後の治療回復についても時間も費用もかかることになる。
また、周囲に気付かれずに亡くなった場合は、保健衛生上の問題もあるだろうし、死んでから長時間立っている場合は、死因の解明や死体の処理、住居の後始末などの問題ややっかいな手続きなどの手間もたくさん出てくるだろう。
しかし冷静に考えたら、そういう事態が起こったときに、迅速かつ着実に処理を行う仕組みさえできていれば、一人暮らしであろうと何であろうと、何を問題にすることがあるだろうか。
「孤独死」がいけない、などという理由はどこにもない。本人が好んでそうするかどうかは別として、「孤独死」を問題にする一番の理由は、周囲の手間が増えることと、感情的に哀れを誘ったり嫌悪感を抱いたり、または自分の身に考えを巡らしてそのようなことを避けたいと考えたりするからにちがいない。「孤独死」をいけないものとする基準は、本人の気持ちや都合ではなく、周囲の人間の都合によるものだといってもよい。
だとすれば、「孤独死」を避けることもさりながら、「孤独死」が起こったときに、どのように処
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