「あすなろ」のことあすなろ、という言葉が大嫌いである。この言葉を冠した会社や団体や組織の名前を聞くといっぺんに身が汚れたような気分になる。その正体がとてつもなく胡散臭いもののように感じてしまう。
アスナロの木が嫌いだということではない。アスナロの木には何の罪もない。その名前の由来として広く知られている話が気に入らないのだ。
ヒノキに似ているがヒノキではない。そして「明日はヒノキになろう、あすはひのきになろう」と懸命に努力しているが決してヒノキになれない。だから、アスナロと呼ばれるようになった、という俗説だ。これが何ともいえずカンにさわる。
アスナロの学名はThujopsis dolabrata、ヒノキChamaecyparis obtusaとは同じヒノキ科の植物ではあるが、全く別の種類の植物だ。だからアスナロがヒノキになるなんてことはどうやったって起こり得るはずがない。だからこの俗説は論理的には正しいけれど、まずは、植物のアスナロにヒノキになろうなんて意志をもつという擬人法に、さぶいぼが立つような嫌悪感を覚える。
百万歩譲ってこの擬人法を受け入れたとしても、なんで自分とは全く違うヒノキになろうなんて考えるのだ。それ以前に、なんでヒノキを良いものだと決めつけて、それを高貴なものとしてあがめ奉るのだ。自分には自分だけの他にはない特徴があるはずだ。それをなぜ大事にしない。大事にしてオリジナルな方向で伸ばそうとしないのだ。
世間で優れていると言われるものを無条件に信望し、ひたすらそれになろうと努力することを尊しとするなんて、自信も自尊心のかけらもない、最初から負け犬根性のしみこんだ輩の考えることだ。そこには、自分自身をこの世に唯一の存在として慈しむ心も、オリジナルな、他に抜きんでた何者かとして成長しようとする気概も心意気も感じられない。それではヒノキにさえなれなくてあたりまえだ。
それに、よしんば懸命に努力してヒノキになったところで、それ以上には絶対になれない。なぜなら、ヒノキになること自体が目的なのだから、目的を達してしまったら進歩も成長もそこでおしまいになるではないか。あまりにも底の浅い、思慮の足りない、志の低い話ではないかとあきれかえってしまう。
この、「あすはひのきになろう」の俗説は、井上靖の「あすなろ物語」で有名になった。ほとんどの人はアスナロの名前の由来をこの物語から知って、いい話だと思っている節がある。だからいろんなところで「あすなろ」という言葉が使われる。
ネットを検索したら、会社の名前だったり、同好会やNPO団体の名前だったり、お店の名前だったり、それこそ山のように「あすなろ」を冠したネーミングがでてくる。「あすはひのきになろう」と懸命に努力するという姿に習おうと、この名前を選んだのだろう。その気
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