信仰は主観的事実である


               滝川純男


私が清沢満之のことを知ったのは、
司馬遼太郎の「歴史と小説」という本の中の
「清沢満之のこと」という一文を読んだ時でした。

その一節の中に次の様なくだりがあります。
  『「仏、極楽は実在するか」と問われたとき、
   清沢満之は信仰は主観的事実である、と答える。』


この主観的事実という言葉に出遇ったとき、
大変な新鮮さと感動をおぼえました。

私は事実ということは
客観的にみて、誰もが受け入れる事柄のことを言うもの
と思っていましたから、
この主観的事実という言葉は、
今まで私の知らない世界のことを表現していると思い、とても感動的でした。

思ってみますと、主観的という言葉と、事実という言葉とは、
元々くっつけた概念としてあるはずがないことだと私が想っているところへ、
この清沢満之という偉人がこういう表現をされたことへの
驚きでもありました。


一年ほど前から、西方寺の本堂の一隅や、満之記念館の二階で
仏法の勉強をさせていただいていますが、
先生方のお話によると、清沢満之が生涯追求したのは
「自己とは何だ」ということだと教えていただきました。

この自己ということと、主観ということが重なって
私の頭の中でうずまいていて、
とても仏法のむつかしさを感じております。

ふたたび司馬遼太郎の一文を借りますと、
「清沢はキリで揉みこむような理詰めの追及のあげくに
 何らかの結論を得るにいたる体質であることを、
 この人の二十才の時の日記で察することができる」とあります。

このような方にして、「主観的事実」と最終的に結論づけられたことに、
常人では達しがたい、先達中の先達のお姿をみるような想いです。

生きている内にもう少し、もう少しわかってみたいと思っています。

ことば
2007/02/10




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