「落在せる自己」

                     松澤泰生

仏教の問題は「自己とは何か?」ということであろうと感じる。

しかしこの問題を実感出来るまでには長い年月を必要とした。
親鸞聖人が著した「教行信証」等を自分勝手に読んでいるだけでは、
この問題には気がつかなかった。

祖聖とほぼ同時代の道元が
「仏道をならふといふは自己をならふなり」と、
この問題を正面から説いているのに対し、
祖聖の教えにも自己が問題とされていることは解からなかった。
実は天親の「我一心」や「正定聚の機」という言葉が、
祖聖が自己を説いた教えであったにもかかわらず・・・・・。

仏教の問題は「往生できるかどうか?」であると長く思っていた。
「往生」が「自己が明らかにされること」「機が成就すること」だとも知らずに。

そういう時代に出遭った言葉が清沢満之先生の
「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、
現前の境遇に落在せるものすなわちこれなり」である。

続いて清沢先生の影響を受けた曽我量深先生の「如来、我となり我を救いたまう」や、安田理深先生の「私となった如来」という言葉、さらに妙好人才市さんの「わしが阿弥陀になるじゃない。阿弥陀のほうからわしになる。」という言葉に出遭い、仏教の問題は「自己とは何か?」ということであると明確に実感させていただけるようになった。

清沢先生の「現前の境遇に落在せる自己」とは私のことではなかった。
私は落在出来ない。
「現前の境遇」とは「宿業」であろう。
「落在」とは「安住」であろう。
衆生の私は宿業に安住することなど出来ない。
楽な境遇を求め、苦しい境遇から逃げようとする。

では「現前の境遇に落在せる自己」とはどなたなのか?

ことば
2006/09/29




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