自己とは何ぞや これ人生の根本的問題なり酒井笑子
私は、母のすすめもあってか、はっきりは意識しないまでも、自ら仏法を聴くということが生活の中の大切な時間的・空間的・義務みたいな思いでおりました。
そして長い間仏法を聴かせてもらって、自分の修養か、教養か、世をうまく渡っていく手段のように思っておりました。
それが、ある時ひっくり返りました。
自分が努力して求めているものでなく、如来様の方から手をさしのべられ、「必ず救うぞ、私を信じてこいよ」とのことでした。矢印が ↑ に向かっているのが、完全に ↑↓ Uターンして私に向かっているのでした。そのことばが「自己とは何ぞや、これ人生の根本的問題なり」です。すべて外に向かい外をうらみ、そして仏様にすがるという形でした。今でもそういう気持ちは時々あります。
そしてこの大きな大命題に対してのお答えをいただきますのが次のおことばです。
「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、現前の境遇に落在せるものすなわちこれなり」です。
清沢先生は、明治の時代浩々洞において同志と共に仏法を学ばれ、次々本を発刊されていかれる中に古き仏教語を使わず、仏法を表現していこうということであったようです。この平成の時代になっても私にとっては「よきひと」にお教えを願わねば難解なおことばが多々あります。
ここで一つだけ「落在」というおことばをいただきます。「如来のおはからいのまま、現にここに在る」ということです。
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