「楽しさ」の構造 ここ数日で「楽しさ」についての考察が深まったので、書き記しておこうと思う。
年を取るにつれて「楽しい」と感じるものの質は、明らかに変化する。
例を挙げよう。
30歳の僕が同年代の友達に「今から隠れんぼをしよう!」と声を掛けたとする。
或いはこの無謀な提案に、5人位は乗ってくるかもしれない。だが、ただ隠れんぼをするだけでは済まない筈だ。
その隠れんぼには間違いなく「最後に鬼になった奴が飯を奢る」とか「全員コスプレをしてくる」とか「詳細をブログにアップする」などの付属物がついてくるのである。純粋な隠れんぼは、大人にはストイックすぎて楽しめないのだ。
「大人」という生き物は、どのような行為であろうと、そこに何らかの意味や付加価値を求める。
大人は、
「金」 「名誉」 「酒」 「コミニュケーション」
の内のどれかが絡んでいないと、その行為に意味や楽しさを感じない。
どういう理由かはわからないが、一部の例外を除いて殆どの人間にこの変化が起こる。
この変化を自覚していないと人生に「楽しさ」を見出すのが難しくなる。
若い頃は、ラクガキをして思ったより上手く絵が描けたり、鼻歌を歌ったら物凄く上手く歌えたり、徹夜でゲームに熱中したり、馬鹿話に興じたりという事を純粋に楽しめる。
ところが大人になると、こういった行為にどうしても虚無感を感じてしまうようになる。
「それは時間の浪費に過ぎないのではないか」
という疑問が生まれのるだ。
それは決して「楽しいものがなくなった」からでも「世の中がつまらなくなった」からでも「人類が堕落した」からでもない。
当然のことながら「オレの青春はもう終わった」からでもない。
真の原因は「楽しい」と感じる条件のハードルが上がってしまったことにあるのだ。
「楽しさ」に関して、贅沢になってしまっていることが原因である。
これを回避する方法は、思いつく限りで3つある。
ひとつは「楽しい」と感じるハードルの高さを意識的にコントロールすることである。これは呼吸法と瞑想を熱心に行うことで可能となる。ヨガやガーデニングなどの趣味も、人によっては効果的だ。
もうひとつは、高くなった「楽しさ」のハードルを満たすべく努力することだ。
会社で権力闘争や出世競争に明け暮れてみたり、起業したり、プロの漫画家やミュージシャンを目指してみたり、恋愛の相手をコロコロと変えてみたり
(1/2) 次»
コメント(2)|コメントを書く
カテゴリー一覧
最近のコメント
このブログを友達に教える