稲田騒動と「北の零年」

  明治5年の5月13日(1870年6月11日)、蜂須賀家臣の過激派が、洲本の家老稲田邦稙(いなだくにたね、1855-1931)屋敷や益習館(稲田家の学問所)や稲田家臣の屋敷を襲撃し、無抵抗の者を殺戮・放火した事件が起きた。自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人の被害者がでた。これを稲田騒動(庚午事変)という。

    事件のおこりは藩祖蜂須賀小六正勝(1526-1586)と稲田貞祐は義兄弟の間柄といわれ、蜂須賀氏が阿波・淡路の領主となると稲田氏は1万4500石という大名なみの知行をもらい、さらに幕府の指導もあって淡路城代に任ぜられた。いらい稲田氏は淡路米や阿波の藍を大坂に出荷して経済力をたくわえるとともに、公卿とも縁組みして地位の向上をはかった。しかし、身分は家老で、その家臣は陪臣として蜂須賀家臣団からつねに軽視されていた。幕末をむかえて公武合体派の蜂須賀氏、尊王攘夷派の稲田氏とが対立するようになると家臣団の対立も表面化する。維新後稲田家臣を士族の下の卒族に入れようとする蜂須賀側、士族編入の嘆願から新藩独立運動へとすすむ稲田側、これにたいする蜂須賀側のいかりが稲田騒動となって爆発した。稲田氏の菩提所・江国寺には、この事件でちった稲田関係者の招魂碑がある。また尊抄寺には、事件の首謀者として切腹を命ぜられた新居与一郎、小倉富三郎、平瀬伊右衛門、大村純安、多田禎吾、南竪夫、小川錦司、三木寿三郎、藤岡次郎太夫、滝直太郎ら10人の供養碑「庚午志士之碑」がたっている。稲田家旧家臣に対しては、士族となることを認めたかわりに蝦夷地開拓を命じた。稲田家の北海道静内町への移住開拓という苛酷な運命は近年、映画「北の零年」でよく知られるようになった。(参考:「兵庫県の歴史散歩」)

日本史
2009/06/06




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