季節は変わる

冬過ぎて春のきたるにあらずと雪間の草の春、などと繊細な季節の移り変わりを古人はよく読んでいる。夏から秋の移り変わりは、日中と夜との季節の違いということに一番でてくる。日中はとうとう日本も亜熱帯地方になったか、温暖化の影響かと騒ぐほどの残暑がいつまでも続き、あげくに今年は雨という言葉も気恥ずかしいほどのスコールかといった雨が多かった。

夜の闇に包まれると、虫のすだく声のすさまじいこと。「枕草子」に「ちちよ、ちちよとあわれに鳴く」という虫の話も出てくるし、「堤中納言物語」には「虫めずる姫君」なんていう話も出てくる。虫は情緒的にとらえられているし、その本から見えるのは、音楽的にもすばらしい、やさしげな虫たちである。時代のせいなのか、我が家の庭が悪いのか、情緒纏綿といった虫ではなく、一斉になく虫の合唱はむしろ命のかぎりと言った感じで、必死さが漂い、またたけだけしいと感じる。日中の夏の名残はふきとんで秋なんだね~と実感する。
さらに「月々に月みる月おおけれど、今日見る月はこの月の月」と一年中月はかわらず出ているけど、秋の月は特別なもの。もの思うには月と秋の夜は特別である。

秋は日中と夜の差が大きい。夜になって「あ~季節は移り変ってるのね」と実感する。日中では残暑が残っていたりして、うかうかと季節の移り変わりには鈍感であるけど、夜の闇に季節の移り変わりを如実に感じることとなる。

昔の人は、自然の移り変わりには今の人よりももっと敏感であった、それは文芸的な意味の中ばかりではなく、ほとんどは自然に合わせて生きていたのだから、農耕民族であるからには当然であった、
とはいえ、やはり自然にまかせてというだけではなく、さまざまな節目という行事を設定することでより季節を実感していたもの。

昨日は彼岸の中日であった。暑さ寒さも彼岸までという自然の移り変わりだけでなく、お彼岸には墓参りをする、さらにおはぎを作って仏壇に供える、そんな行事を通して季節のうつりかわりを感じていたのであろう。我が家でも毎年おはぎを作って仏壇に供えるのは当たり前の行事であった。小豆を煮て、黄な粉、ゴマと三色のおはぎ、毎年作って供えるのは当たり前であったけれど、今年はやってない。帯状疱疹になってまだ鈍痛を抱えている。気だるさがぬけない、気力わかないである。若い時は家族多く、店の人にも、親戚にも裾分けして張り切ったものであるけど、今やひっそりした我が家では気力わかないだけでなく、似つかわしくなくなってしまった感がある。長年やってきた行事であるし、家族もおはぎが大好きだから、帯状疱疹よくなってから作ろうとは思う。なんとなく諦められない行事なのである。忘れた時間、後ろめたい感じかな。それともあの賑わいの過去の時間を懐かしむ気持ちかも。

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日記・コラム・つぶやき
2008/09/25




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