言葉 その中味言葉は事物を表したり、心を表したりとまったく意識もしないままに使っていることが多い。大人になると言葉の膨らみに気を配り、ぶしつけ、そのまんまが言葉の中味とはいえないことは十分承知している。
さはいえども、お茶にまつわる世界の言葉ほど、内容との乖離があるのではと思うことはそうはないかも。お茶とは無縁に過ごしている人が、お茶に携わっている人を煙たく思ったり、近づきにくいと感じるのは、主として言葉がそのまんまではなさそうだ、どこらに真実があるのかわからないということを感じてしまって、近寄らないでおこう、あるいは胡散臭いと感じてしまうと言われたものである。
実際何気なく言っているのだろうが、何十年もお茶をやっていながらひよこですと謙遜したふうに見えながら、その実は全然そんなこと思っていなくて、とりあえずそう言っておけば問題はなかろうという一種傲慢な思いの表現であることが多い。またそう聞いているほうも、まっすぐひよこなんて全然受けとっていず、ベテランですねなんて思いながら、そういう言い方をするのは当たり前ととっていることが多い。それは大人同士の会話であろうという話になっているけど、それは大人同士の会話ではなく、ただたんに年を重ねている人とか、先生のその社会におけるヒエラルキーをなんとなく追認、それに従っていれば問題はないだろうという暗黙の了解のうちの上滑りした言葉であることが多い。
言葉は実感を伴ってこそ相手に届き、心をうつものである。なにごともむくつけき荒々しい現実をそのまま言葉にするということではないけど、真実をオブラートーに包んだという程度どころか、まったく心にもないことを一つの型として言葉として表現するのはいかがなものであろうか。どうしてお茶の世界では、言葉まで型があるのかと驚き、うんざりするのは私だけではなかろう。
うわすべりの言葉を謙遜と勘違いしている御仁は多いかも。
お茶が好きな人は多いけれど、あの言葉の持つ世界にはついていけない。近寄りたくないという人のなんと多いことか。
お茶は特別な世界とは思わない。自分らしくありたい一つの世界ではあるけど、特別の世界、選良なんていう思いのなんと傲慢で小さな世界であることか。でもきっとそんな現実とはちょっとずれた言葉の世界って、本当は其の人の鎧かもしれないと思うこともある。お茶と切り離してみれば、なかなか味のあるエレガントな人はいますもの。ところがお茶と限定してしまうと厚手の鎧に包まれたなんとも柔和に見えながら、その実は空疎な世界に変貌してしまう人の多いこと。これだからお茶って誤解されるんだわと思う。
子供の時分から稽古を始めても何十年も修練しながら、いつまでもひよこと言わなきゃならない、しかも決して
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