長男文也の死をめぐって<10>文也の一生4「文也の一生」は、
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。
と書き出されます。
このことから、詩人が、「文也の一生」を、
日記の一こまとして書いたということがわかります。
妻孝子が、当時患っていた眼病のことから
書き起こすのは、とても自然のことでした。
「文也の一生」を書きながら、
詩人は、それまでのように、普段通り、
自身の一生の日記を記していたのですから。
10月18日生れたりとの電報をうく。
生れてより全国天気一か月余もつゞく。
孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。
それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新道病院に思郎に伴はれて面会にゆく。
12月9日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後8時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。
その間小生はランボオの詩を訳す。
1月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか3泊す。二人で玉をつく。
9月ギフの女を傭ふ。
拾郎早大入試のため3月10日頃上京。
拾郎合格。
小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。
7月敦夫君他へ下宿す。
以上のように、ざっと見ても、
「文也の一生」の半分近くが
詩人中原中也の日常の記述です。
その中に
長男文也の成長の記録が
挟まれているといってもよいくらいなことがわかります。
そして、
その年の6月、7月、8月……と日を追い、
また、書き忘れたことを思い出して、
7月に戻って、
7月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。
と、書き足します。
そして、
飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。
と、書いたところで、記録はプツンと切れてしまいます。
*
日記(1936年)文也の一生
昭和9年(1934)8月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。9月末小生一人上京。文也9月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。
10月18日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後1時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一か月余もつゞく。
昭和9年12月10日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の6畳にて孝子に負はれたる文也に
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