娘ことごとく売られし村

                            結城 哀草果

  貧しさはきはまりつひに歳(とし)ごろの娘ことごとく売られし村あり

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 結城哀草果(ゆうき・あいそうか) 明治26年山形市生まれ。本名光三郎。黒田家より結城家の養子となる。大正3年「アララギ」に入り、斎藤茂吉に師事。以後、農民生活を歌い、特に昭和10年刊行の『すだま』で東北の凶作を歌い、注目を集める。昭和24年に「山塊」、同30年に「赤光」を創刊、主宰した。歌集『山麓』『群峰』など。随筆集『村里生活記』他数冊。昭和49年没。  (講談社学術文庫『現代の短歌』より)

 山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、近代短歌の代表的歌人として広く知られています。しかし茂吉の弟子だった結城哀草果は、活動の中心が地元山形というローカル歌人だったこともあって、よほどの短歌通でなければその名を知らないと思います。
 ちなみに私の出身中学である(山形県)宮内中学校の校歌は、結城哀草果の作詞によるものです。

 略歴にあるとおり今回の短歌は、昭和初期の東北の凶作を歌った歌集『すだま』収録中の一歌です。日本史の教科書に載った「娘売ります」の張り紙を立てた写真の部落が、私の母校があった長井市の一部落だった。このことは、昨年末記事『今は昭和初期と酷似 !?』の中で既に述べました。
 この歌は、解釈の必要がないほど平易な歌ですが、当時の深刻極まりない東北の農村の実情を直視した社会的短歌です。

 歌冒頭の「貧しさきはまり」とは、一体どのような状況だったのでしょう?
 直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、上記記事でもふれました1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特

(1/2) 次»

和歌・短歌観賞
2009/07/10




コメント(0)|コメントを書く

カテゴリー一覧
最近のコメント

このブログを友達に教える

コミュニティ | 有名人・芸能人ブログ | ケータイ占い | ケータイ小説 | 掲示板


画面TOP↑


powered by cocolog